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道草 [夏目漱石]

12月9日は漱石先生の命日。
命日を少し過ぎた頃、お墓参りに行ってきました。

雑司ヶ谷霊園に眠る漱石先生。
命日を過ぎていたけれど、お花が供えられていました。
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最近時々思い出すのが、小説「道草」に出てくる主人公の言葉。

世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。
一遍起こった事はいつまでも続くのさ。
ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。

大正4年に東京・大阪の朝日新聞に連載された「道草」は、前作「こころ」に続く作品で、漱石先生が亡くなる一年前に書かれたもの。

「吾輩は猫である」執筆時の生活をもとにした漱石先生の自伝小説とされていますが、小説であるので、全てが事実というわけでもないようです。

主人公は、外国から帰国した教員の健三。ある日自分を育てた養父の島田と再会する。健三は3歳から7歳まで島田夫妻に育てられ、その後実の父に引き取られて、父は島田夫妻に手切れ金を渡し、絶縁を言い渡した。にも拘らず15、6年経った今、再び健三の前に現れ、金の無心をする島田。

それだけではない。健三には腹違いの姉がおり、月々の小遣いを遣っているのだが、もう少し増やしてほしいと頼まれる。妻の実家の暮らしぶりもよくなく、妻の父親からお金を用立てて欲しいと頼まれる。そして、養父と離婚した養母までも健三を訪ねてくる。

「みんな金が欲しいのだ。そうして金より外には何も欲しくないのだ。」
思わずつぶやく健三。

しかし、なんだかんだ言いながらも、それらの依頼を受け入れてしまう。それは、彼らに対する愛情などではなく、断ってしまう事が不義理だという考えからなのです。

そんな健三に妻のお住はいい顔をしない。健三とお住は月と太陽ほど考え方が違うので、いつも歯車が合わない。
「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべきものだ」と考える健三に「いくら女だって」といつでも反論する妻。彼らの意見はいつでも堂々巡り。

学問をしてきた彼は、妻だけでなく親類からも変人扱いされており、学問や論理に従って生きる知識人と実用性に従って生きる庶民とのギャップを感じています。

妻との関係も、養父母や姉、義父など周りとの問題も片付けようとするのにどうしても片付かない。
この作品のテーマはずばり「片付かない人間世界」。

妻や周りの人達は、何でも眼に見えるものをしっかり手に掴めば片付いたと思いこむのですが、健三は「片付いたのはうわべだけ」と見抜く。
そんな彼が妻に対して放ったのが、先述の言葉です。

日常生活ではズレていると思われていた健三こそが、実用性の本質を見抜いていたということですね。

確かに、この世は片付かないことばかり。
だけども、みんな片付けようと努力しながら生きている。

ちなみに、「道草」の意味を辞書で調べてみたら、このように書いてありました。

目的の所へ行き着く途中で、他の物事にかかわって時間を費やすこと。

まさに、人生だ。

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タグ:道草
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